帥升

次に倭が歴史に登場するのは中国では後漢の安帝の時代になります。

金印の発見

天明4(1784)年2月23日、今日の暦では4月12日にあたります。花見が終わって、さあ頑張ろうという時節です。しかしこの頃、長雨や大風など異常気象が相次いだと記録にありますから、そうした余裕はなかったのかもしれません。  発見者は一般には口上書を提出した甚兵衛(じんべえ)となっています。しかし1830年代に著された仙崖和尚の『志賀島小幅』には秀治と喜平と書き添えられています。このほか『万歴家内年鑑』には秀治と記されていますから、彼らは甚兵衛の奉公人であったとも考えられます。 

志賀島金印公園

その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されました。


金印はこの金印公園のオブジェから海に向かってすぐ右で発見されたそうです。

金印には「漢委奴国王」と刻まれていました。

この五文字から漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かります。そして中国の歴史書『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており金印そのの持ち主は帥升といいます。


『後漢書』「巻八十五」の「東夷伝」の「第七十五」

安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。


『翰苑』「蕃夷部」「倭国」の条

後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王帥升至

後漢書に言われていることには、 安帝の永初元年、倭面上國王帥升が来た。


『日本書紀纂疏』「一」 

東漢書ノ伝二曰…倭面國此方ノ男女皆面ヲ點シ身を文カサル故二面ノ字ヲ加テ之呼フ 東漢書二曰安帝ノ永初元年倭面上國王師升等生口百六十人ヲ獻ス 

東漢書に言われていることには、…倭面國は、その国の男女は皆、面(顔)と身体に入れ墨をしている。よって面の字を加えてこれ(国の名?)を呼ぶ 東漢書に言われていることには、安帝の永初元年、倭面上國王師升等が生口160人を献じた。


多少の違いは有りますが書面では師升が160人の奴隷を漢の安帝に献上し謁見を求めたこと

その国の男女の顔と体には刺青があったことが記されています。

そしてこの島は安曇族の島であると記されています。

金印のオブジェ

海の向こうには大陸が広がっています。

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倭国の記憶

倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。