志賀海神社表津宮

師升の金印が発見された志賀海神社で古くから祀られているのが志賀海神社です。


御潮井でまず体を清めるのは海人族の風習でしょうか? 

弐の鳥居横

末社 印鑰社

印鑰社とは元々印を保管した場所という意味だそうです。

金印のことでしょうか?


祭神の久那土神は「来なと」。悪霊邪気の侵入を防ぐ神のことです。

一説では素戔嗚尊の息子 長脛彦の別名とも云われます。

末社 山之神 社

祭神 大山津見神とは越智氏が宮司を務める大三島のことで伽耶の金首露の一族のことです。

志賀海神社 略紀 祭神 左殿:仲津綿津見神 (なかつわたつみのかみ) 左殿相殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) 中殿:底津綿津見神 (そこつわたつみのかみ) 中殿相殿:玉依姫命 (たまよりひめのみこと) 右殿:表津綿津見神 (うはつわたつみのかみ) 右殿相殿:応神天皇 (おうじんてんのう) 由緒  古来、玄海灘に臨む交通の要所として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神の総本社」とたたえられ、海の守護神として篤(あつ)く信仰されている。  御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が筑紫の日向の橘(たちばな)の小戸の阿波岐原において禊祓(みそぎはらい)をされた際に、住吉三神と共に御出現された綿津見三神で、神裔阿曇族(しんえいあずみぞく)によって奉斎(ほうさい)されている。  御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特に嫌い、諸々の穢(けがれ)・厄(やく)・災(わざわい)・罪をはらい清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現(けんげん)されている。


当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。 2世紀(遅くとも4世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝山に遷座、あわせて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀(ほうし)されたと伝えられる。  むかしの社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。 社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元冦の役(げんこうのえき)など国家の非常の際に嚇々(かくかく)たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正十五年(1927年)には官幣小社の処遇をうけている。 


やはりここは安曇族が護る神社です。


亀石 遥拝所

末社

今宮神社  現地説明板より 『 摂社 今宮神社  御祭神 宇都志日金拆命・住吉三神・天兒屋根命・阿曇磯良丸をはじめ神孫阿曇諸神 御神徳 盗難除け・航海船舶の安全・出世開運・合格 御由緒  「古事記」に「此の三柱の綿津見の神は阿曇の連等が祖神と以ちいつく神なり。かれ、阿曇の連等は、その綿津見の神の子、宇都志日金拆命の子孫なり。」 と記され、綿津見三神を奉祭するのは宇都志日金拆命の子孫である阿曇家となっている。当社は代々阿曇家が宮司を奉職しており阿曇家の祖神である宇都志日金拆命は綿津見三神に仕える者の祖神として奉祀されている。  また、神功皇后三韓出兵の際に出現された阿曇磯良丸命は当地龍宮にて干珠満珠を借り賜って海上指揮に仕えたと伝えられている。 』

そしてここには多くの鹿の角が奉納されています。


最後に志賀海神社に伝わる山誉め祭、神楽歌をご紹介します。 君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命<いのち> 千歳<せんざい>という 花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや 志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで 今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな — 山誉め祭、神楽歌 

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倭国の記憶

倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。