末盧国

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之


「又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。魚鰒を捕るを好み、水、深浅無く、皆、沈没してこれを取る。」



最近の研究では末盧国は宗像であると考える方もいらっしゃいますが、遣唐使のルートもやはりこの海路で、やはり末盧国の「まつら」とはやはり現在の松浦であり松浦川の流れる最も壱岐寄りの国 唐津が有力ではないかと考えます。


松浦には約四千余戸の住宅がありヒコもヒナモリも存在せず漁業により生活をしていたと記載されています。

大陸から唐津までの道のりで目につく島々が幾つか存在します。


まず加唐島


この島には百済の武寧王が誕生した地があり、三韓征伐後の人質として連れてこられたと思われる遺跡が存在します。


次に馬渡島


卑弥呼の時代 倭に馬はいなかったと記載されていますが、最初の馬が渡ってきたことからこの島の名前が付いたと云われています。

そして東松浦半島北端にある呼子には律令制下においても登望駅が置かれ大陸との交通の拠点になっていた


ここには支石墓から支石甕棺、甕棺墓、箱式石棺を経て配石墓に至る、推定前8-7世紀から2-4世紀の連続した遺跡が残されており、抜歯を伴う縄文形質の人骨が出土した。


九里双水古墳

3世紀末から4世紀ごろに作られたとされており、邪馬台国の起源をさかのぼる上でも重要な遺跡である。粘土で覆われた石室は砂岩製の天井石3枚で密閉されており、内径は高さ2.5メートル、幅0.9メートル、高さ1メートルの竪穴式石室が発見されている。

おそらく神功皇后の項に記される松浦の君の祖先に当たるのかもしれません。


その頃鏡山神社は七面山と呼ばれており、その前後の天日鉾の製鉄所の痕跡が見られます。



唐津では古いとされる唐津神社や鏡神社もその後の神功皇后時代に対馬の神道を導入したと思われます。



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倭国の記憶

倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。