東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
「東行、不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。」
奴国から百里行くと不弥国(ふみこく)に入るとあります。
官の多摸(タボ)が誰であるかは不明ですが副の卑奴母離はいつもの防衛隊長のことでしょう。
私は「魏志倭人伝」の距離は他と同様に考えると一里を短里=434mであると考えます。
すると奴国から換算すると東に43,400mであると考えます。
私の考える奴国が現在の春日・那珂川辺りで考えると現在の宇美町付近ということになります。
宇美町の音も「うみ」でどうも当時の中国の人はもしくは倭人は濁音や幾つかの言語を正確に発音できていなかった為に「U」を「FU」と発音していたことにより混乱を起こしたようです。
宇美町で有名な古墳で云うと光正寺古墳が上げられます。
築造年代は、第1
主体部から出土した古式の土師器(甕)の製作年代が3世紀中頃から後半と見られることから、前期古墳の中でも最古期に
属する古墳とみられている。粕屋郡内最大の前方後円墳であることから、被葬者は当時糟屋地域を支配していたた豪族つまり官の多摸のことではないかと考えられます。
ここから最も近く格式の高い神社で考えると応神天皇誕生の地と伝わる宇美八幡宮ですがこの神社は時代は神功皇后の時代 約四世紀頃であると考えられます。
ここの奥宮には応神天皇の御胞衣を納めたと御胞衣ヶ浦云われる奥宮
応神天皇のものかどうかは不明ですが、神功皇后には九人の皇子がいたと伝わることから、その何れかの皇子のものであり 四世紀にはその領土であったことが伺えます。
倭国の記憶
倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。
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