建速須佐之男命(壱)


『高良玉垂神秘書』を解読するに当たってこの文にほとんど記載されていない人物が建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)であるといえましょう。


『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊邪那岐命が黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、鼻を濯(すす)いだときに産まれたとする


『日本書紀』では伊弉諾尊とイザナミ (伊弉冉尊・伊邪那美命)の間に産まれ天照大神・ツクヨミ(月読)・ヒルコ(蛯児)の次に当たる。


ではこの建速須佐之男命がどのような人物であったか解明してみましょう。


新羅神社の伝承には次のような記載がある。


『日本書紀第8段第4の一書の内容 第8段第4の一書では,天上界を追放されたスサノヲは,その子「五十猛神(いたけるのかみ)」と共に「新羅国」の「曾尸茂梨(そしもり)」に天降る。 ところがスサノヲは,この国には居たくないと述べて,「埴土(はに)」で舟を作って「出雲国の簸(ひ)の川上に所在る(ある),鳥上の峯(とりかみのたけ)」に来てしまう。


ここからスサノヲは新羅の出生であることがわかる。


更に新羅の王系を見てみると初代王 赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん、紀元前69年? - 後4年 )4代王 脱解尼師今(だっかい にしきん)第4代王脱解尼師今 第4代王脱解尼師今のときに神話的出生とともに見出された。世孫に第13代王味鄒尼師今が出て新羅王として即位し、以後金氏の王統が占めることとなり、始祖として敬われた。

ではスサノヲがどの系統の王子であったか探る手がかりは建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の名前にあるといえましょう。


4代王 脱解尼師今には次のような伝説が伝わっています。

『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀 倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。長じて、第2代南解次次雄5年(8年)に南解次次雄の娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。


更に天橋立を参道にしている丹後の《籠神社》には、古代にこの地から一人の日本人が新羅に渡って王様になった――という伝説が残されているそうです。


この4代王 脱解尼師今のまた脱解王の脱解の意味も日本語のタケ(武・建)に当たるそうです。


以後この系統の人物には武・建の名が付けられたと考えられます。


では武・建の系統を追ってみることにしましょう。



  



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倭国の記憶

倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。