時系列で考えると中国の史書に「倭人は太伯の後裔(こうえい)である」との記事がある。
「呉」とは中国の周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。 紀元前12世紀から紀元前473年夫差王まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。 国姓は姫(き)であるという。
「倭人が呉の末裔であると解釈できる中国史料は何か?」というとそれは『魏略』であり中国の使者に<…その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。>つまり自ら「倭人が呉の末裔である。」と語ったことがその根拠となります。
髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されている。
最初に倭人が古文書に登場するのが、前漢の史家・王充(オウジュウ=AD27年~97年)が著した『論衡』(ロンコウ)という史書の次の箇所である。
第 八 儒僧篇 周の時、天下泰平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草(チョウソウ)を貢ず。
第十三 超奇篇 暢草は倭人より献じられる。
第十八 異虚篇 周の時、天下太平にして、倭人来りて暢を貢ず。
第五十八 恢国篇 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。
これがいつの時代の記述かというと、その時期を成王の時代としている。
成王の時代とは、確定された在位は紀元前1042年から1021年の22年間である。
この時代の倭人が「呉」の時代と同時期ではあるが、記載のある倭人と同じ倭人であるかは不明で同じ人種かというと、明確なことは言えないようです。
次に倭国に呉人の伝承や証拠が残っている場所を調べてみましょう。
九州には呉人と思われる河童伝説が多く、その中でも最も古くから伝わるのが、「熊本八代の河童伝説」であるといえます。
延享3(1746)年、江戸の菊岡沾凉という人が記した「本朝俗諺志」という書物にこのような話が出ています。
「中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て球磨川に住み着くようになった。その後、一族は繁栄してその数九千匹になったので、その頭領を九千坊と呼ぶようになった。その河童どものいたずらが激しく人々をこまらせた。加藤清正はこれを怒り九州中の猿に命令して、これを攻めさせた。これには河童も降参して、久留米の有馬公の許しを得て筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった。」
最初に河童がやってきた所がここ徳渕津で、ここに住み着いたあと八代で生活を始めた河童はいたずらを繰り返し、人々の怒りをかいます。とうとうつかまってしまった河童は、2つの石がすり減ってしまうまで悪さをしないことを約束し、その代わり年に一度祭りをして欲しいとお願いし許されます。この二つの石は後にガワッパ石と呼ばれ、橋石として使われていたそうです。その時以来始められた河童を祀る祭りを河童を祀る祭りを「オレオレデーライタ川祭り」といいます。「オレオレデーライタ」の意味については諸説ありますが、「呉の国からたくさん来られた」という意味だという人もあります。
魏の使者に語った倭人達がこの人々の子孫なら十分考えられることです。
倭国の記憶
倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。
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