脱解王

新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。


この国の王は、朴・昔・金氏の三氏が世襲し金官伽耶の初代王金首露の誕生時期に初代朴氏から昔氏へと移行されました。


この移行された昔氏の初代王 脱解尼師今(だっかい にしきん)は婿養子であり育った場所は伽耶であったそうです。


『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀

倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。長じて、第2代南解次次雄5年(8年)に南解次次雄の娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。


倭国の東北一千里のところにある多婆那国とは一説では 但馬 丹後 玉名などが上げられます。


天橋立を参道にしている丹後の《籠神社》には、古代にこの地から一人の日本人が新羅に渡って王様になった――という伝説が残されているそうです。


また脱解王の姓が昔であるのは、生まれた時近くに鵲(カササギ)がいたことから略字の昔を姓としたともあります。


この鳥は日本では九州が有名ですが、日本海側に多く生息しています。


この昔氏の一族(伊弉諾尊)と金首露の一族の間に生まれたと云われるのが天日矛の別名 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)であったと思われます。


また脱解王の脱解の意味も日本語のタケ(武・建)であるということもその理由の一つといえます。


日本書紀第8段第4の一書の内容

第8段第4の一書では,天上界を追放されたスサノヲは,その子「五十猛神(いたけるのかみ)」と共に「新羅国」の「曾尸茂梨(そしもり)」に天降る。


ところがスサノヲは,この国には居たくないと述べて,「埴土(はに)」で舟を作って「出雲国の簸(ひ)の川上に所在る(ある),鳥上の峯(とりかみのたけ)」に来てしまう。


つづく

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倭国の記憶

倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。