邪馬壹國(参)



自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡 


「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。」


「魏志倭人」では邪馬壹國の勢力範囲内の説明に続きます。


「魏志倭人」に記載されている伝邪馬壹國の記載されている国と考えられる国は現在の伽耶韓国・壱岐・対馬・福岡県全域から朝倉市杷木までと考えられます。

別の時代の書である「隋書俀国伝」によると

俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近  


「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している。その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。古には、楽浪郡境(後漢書、この頃帯方郡は存在しない)及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、會稽(郡)の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」 とあり


その位置は俀王姓阿毎字多利思北孤のいた地域が邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)であると記載されています


その地域の特徴をあげると

有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭 有如意寶珠其色靑大如雞卵 夜則有光云魚眼精也 新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來 


「阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。人々はわけのわからないことだとして、祈って祭る。如意宝珠というものがある。その色は青で、大きさはニワトリの卵くらい。夜になると光る。魚のひとみだと言っている。新羅と百済は、どちらも、倭は大国で珍しい物が多いと考え、敬い見上げている。常に使者を通わせて往来している。」

宝珠が祭られている岩戸神社

この辺りは継体天皇の出身地と同名の地名で福井といい筑紫君磐井との決着はこの辺りで決定したと云われます、

阿蘇山に建つ阿蘇神社

聖地と云われる麻氐良布神社


更に鵜飼漁が行われていたとあります。


この地から先の日田には蘇我氏の親衛隊 東漢氏の末裔大蔵氏(坂上氏)の子孫が治めていた日田には継体天皇神社の神紋の三光

日隈・月隈・星隈がありそこからは卑弥呼の鏡とも云われる金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)も発見されました。


決定的な発見「親魏倭王」の印が発見されないので断定はできませんが、ここが邪馬壹國の最有力地

であると考えられます。

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倭国の記憶

倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。