正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩
「正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に
拝仮す。並びに詔を齎(もたら)し、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を賜う。倭王は使に因りて上表し、詔恩に答謝す。」
この貢物の中にある絹は現在北九州でしか遺跡は残されていないそうです。
この時魏の国王から授けられた「親魏倭王」の印が理由で筑紫の君 磐井 『隋書』の多利思北孤は卑弥呼の後継であることを名乗ります。
つまり対外的に正当な王朝であることを主張します。
其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
「其の八年、太守、王頎が官に到る。倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼素と和せず、倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)りて之を告諭す。」
卑弥呼の時代後期 狗奴国王、卑弥弓呼素と交戦状態であったことが書かれています。
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
「卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って壱与に告諭す。」
その戦争が原因であったかは不明ですが、次に卑弥呼の墓について書かれています。
卑弥呼の墓については諸説ありますが、時代的に合うのは宇佐八幡宮の二ノ殿の石棺ですが、宇佐氏の伝承では宇佐津媛の石棺だそうです。
画像はお借りしました。
北九州の赤村の巨大古墳は逆に450mと大きすぎて魏志倭人伝の記載を超えてしまい、時代的にも疑問です。
倭国の記憶
倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。
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