其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。王と為りてより以来、見有る者少なし。婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観、城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。」
倭国は昔 男子を王としていたが、国が乱れた為に卑弥呼という女子を共立して王としたとあります。
平原遺跡
伊都国にある女王墓が時代的には合っていますが、卑弥呼の墓であるという決定的な証拠がありません。
ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観、城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。」と有るように
伊都国には神武天皇の逸話も多く卑弥呼の世話をした者が弟の神武天皇であるとの説も有りますが、こちらも決定力に欠けます。
<…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>
この記載より卑弥呼と神武は自ら呉の太伯の子孫であると名乗ったとあり呉の一族であれば熊本の八代からこちらに移り住んだということになります。
大分県宇佐市 宇佐神宮 呉橋
大分県中津市 薦神社 呉橋
こちらの呉橋は通ることを許されたのは呉の一族と勅使のみですが共に大分県に現存します。
この橋を使用したのであれば、やはり大分県が卑弥呼もしくは関係者の最有力地であると考えられます。
倭国の記憶
倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。
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