一大率

自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯 


「女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。」


邪馬壹國より北には一大率を置き検察したとあり、その一大率は伊都国にいたと記されています。


先に伊都国の官は爾支(ニキ)と記されていますので、この爾支(ニキ)が一大率であったと想像されます。


我々はこの爾支(ニキ)とはニギハヤヒのことであろうと想像しています。


ではこの饒速日(ニギハヤヒ)が誰のことかというと高祖神社の祭神 彦火々出見命(山幸)の別名であると考ています。


この神社の神紋は木瓜(モッコウ)ですが、木瓜(モッコウ)といえば素戔男尊が想像されます。

何故この神社の祭神 彦火々出見命(山幸)にこの神紋が使用されているかというと

その謎は東王子、天照皇大神  主神、 伊弉册大神(いざなみおおかみ) 西王子、月読大神祭神とする飯盛神社にあります。

飯盛神社


この神社の神紋も高祖神社と同様に木瓜(モッコウ)ですがこの神社の中宮には五十猛が祭られています。


この五十猛ですが一般には素戔男尊の息子とされていますが、別の神社では五十猛とは饒速日(ニギハヤヒ)の別名であると考えられています。


確かに饒速日は素戔男尊の義理の息子に当たるので息子には間違いないのですが、釈然としない疑問も残るのも確かです。


この神話と魏志倭人伝などの融合が我々の目的といえるのです。

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倭国の記憶

倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。