建速須佐之男命(四)

天日鉾が上陸したと考えられる唐津のシンボル的神社が鏡山神社です。

鏡山神社


元は八面山と云ったそうです。


祭神は天日鉾の子孫と云われる息長足比売命(神功皇后)ですが、現在までに保食神と天神地祇を祀っている。保食神を祀っていることに対する由緒は不明だが、これが鏡山稲荷神社云われるゆえんです。

 保食神とはウカノミタマのことで、『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた[。


実はこの神は『古事記』では、スサノオの系譜において登場し、スサノオがクシナダヒメの次に娶ったカムオオイチヒメとの間に生まれている。


まずここで何故天日鉾の子孫縁の神社にスサノオの子が祭られているのか不思議ですが


更に糸島の天日鉾が砦を築いた雷山の麓には宇美八幡宮があります。


糸島宇美八幡宮


元々この神社は長野八幡宮と云ったそうですが、神功皇后以降宇美八幡宮と改名したそうです。


気比大神 (海の神) 神功皇后渡韓の船上にこの神が現れ、「我は皇后の船と国土とを守る」と宣託されました。皇后はこれに感じて帰朝後、長嶽山でお礼の祭祀をされたといわれています。この故事に因み、後に、仁徳天皇の治世に、この地に神社を建てて気比大神を祀りました。これが本宮の起源と云われています。


更に社伝では気比大神とは天日鉾をさすそうです。


ここまでで天日鉾と気比大神が同一人物であることが解ります.


ここで麛坂王と忍熊王を騙す為、応神天皇を御船に乗せた後の話に移ります。 

建内宿禰は皇太子(=ホンダワケ【応神天皇】)を連れて禊(ミソギ)をしようと、近江や若狭を巡り、越前の敦賀(ツルガ)に仮宮を建てて、滞在していました。 その敦賀の土地にいる伊奢沙和気大神(イザサワケ)が建内宿禰の夢に出て言いました。 「わたしの名前をその子の名前に変えたい」 ソレに対して建内宿禰は 「恐れ多いことです。 おっしゃるとおりに名を交換しましょう」 するとその神は 「明日の朝、浜に出かけなさい。 名を変えた『しるし』を差し上げましょう」 と言いました。 ホンダワケ皇太子が翌朝、浜辺に行ってみると、鼻の傷ついたイルカが、集まっていました。 それを見て、皇太子は言いました。 「私は神より、食料の魚をたまわった」 それで、その神を御食津大神(ミケツオオカミ【ミケツは神の食べる食物・天皇が食べる食物の意味】)と名づけました。現在は気比大神といいます。 またイルカの鼻の血が臭かったので、その浦を「血浦」といいます。現在は「都奴賀(ツヌガ)」といいます。

気比神宮


御食の名前を持つ神と言えば 加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)で 『先代旧事本紀』「神代本紀」には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあります。

百嶋系図より抜粋


  つまり天日鉾=気比大神=加夫呂伎熊野大神櫛御気野命=建速素戔嗚尊ということになり 天日鉾は素戔嗚ということになります。



では何故天日鉾と建速素盞嗚尊が別人物に分けられたかというと麛坂王と忍熊王にその理由はあるようです。


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倭国の記憶

倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。