建速須佐之男命(伍)

戦国時代の雄に織田・伊達は神武天皇に抵抗した長脛彦の子孫であると自称しています。


このうち伊達家については祖先である秋田氏が長脛彦の兄 安部日子の系統 安部一族であることが解っていますが、織田氏においてはその祖神は福井の織田明神であるとしています。


劔神社(つるぎじんじゃ)別名織田明神(おたみょうじん)


御祭神 

素盞嗚大神(すさのおのおおかみ) 氣比大神 (けひのおおかみ) 忍熊王  (おしくまのみこ)

福井県丹生郡越前町織田 の 劔神社由緒に次のような記載があります。


 劔神社の創祀は悠久の昔、遥か北に仰ぐ座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、〝劔大神〟と称えてきたことに始まります。 神功皇后摂政の頃に第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王は、劔大神の御神威を頂き当地方を治めることができたことを謝び、現在の地に社を建て〝劔大明神〟と仰いできたことを社記は伝えています。 奈良時代より祈願の霊場と尊ばれ、朝廷をはじめ多くの人々から厚い信仰を受けてきました。現在所蔵する国宝の梵鐘は、第四十九代光仁天皇の御奉納といわれています。 中世以降は、朝倉氏を始め武将の崇敬も厚く、特に織田信長公は氏神と崇めて、格別の信仰をもって神領を寄進するなど、神社を保護しました。 江戸時代の末には、伏見宮家の御祈願所と定められ、拝殿の御寄進をいただき厚い尊崇をうけて今日に至っています。越前国二の宮として一の宮の氣比神宮と共に、福井県民はもとより県外の方々からも篤い信仰を受けている神社です


劔神社HPより画像をお借りしました。

これは略縁起内にみえる、神劔奉授の一場面が描かれてた絵画である。 この時素盞嗚大神様は忍熊王の夢枕に立ち『皇子努力せよ われ今汝に霊劔を授くべし、之を斎き奉らば賊徒は直に平定すべし。 我は素盞嗚尊なり』と告げ劔を授けたと伝わる。


ここからも解るように忍熊王は素盞嗚尊の直系の男子である可能性が高いように考えます。

もしかすると安部日子の名が麛坂王で長脛彦の本当の名が忍熊王であったかもしれません。


さっしのいい方はお解かりかと思いますが、天日鉾(素盞嗚尊)の母方の子孫である神功皇后が素盞嗚尊(多分仲哀天皇の血統)の跡を継ぐには直系の子孫は非常に邪魔な存在になるはずです。


そこで考えたのが天日鉾と素盞嗚尊を別人格にすることであったと考えます。


その後、応神天皇が気比大神と名前を交換したのもそれが理由かもしれません。


また長脛彦は神武天皇ではなく応神天皇の時代の人であった可能性も否定できません。


しつこいですが建速須佐之男命にもう少しお付き合いお願いします。

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倭国の記憶

倭国の古代のみ時系列で解明していきたいと考えています。